「さわらび」を読む!特別編−ワタナペに告ぐ−
サイトワ ジュニチロフ
忙しい年末に何なんだとお思いの方もいると思うが、私は今回ある男のために原稿を書く。そいつの名はワタナペである。私は春学期発行の早蕨、すなわち早蕨第119号に対してe‐mailによるリアクションを試みた。それがe‐さわらびの始まりであり、「さわらびを読む」という原稿であった。
それがいけなかったのかもしれない。あの男は早蕨第120号、121号に連続して投稿してきた。特に121号は80期最後の記念すべき早蕨だというのに・・・。そしてひさしぶりに会うと、決まって私にこう言うのだ。「(ぼくの原稿について)なんか書いてくださいよぉ〜」やめろ。
ほほえむな。顔を近づけるんじゃない。これ以上の執拗なアプローチには私は耐えられない。というわけで、こうして原稿を書くに至ったわけである。
以下、早蕨第121号上の奴の投稿「イジられる19歳」について書くわけだが、上記のような経緯を踏まえてみると、この原稿に見られるいびつな構造に気がつくであろう。つまり、無理やり私(サイトワ)に対する悪口を書いているという点である。本文は、ハフヤさんとのやりとりから夏合宿における肝だめしの回想へと移り、そしてそこにおける自分の姿を振り返りつつ、自らの青春に対する疑念を吐露して終わる。その過程で、おばけ役から見た肝だめしの様子が語られている。彼に与えられた役職は「座敷わらし」だったわけだが、そうした同期による処遇と肝試しの受け手
(つまり他学年)による処遇の両面を持って「イジられる」と表現したものと思わる。
彼の言うところによると、「1年生は(肝試しのおばけ役を)経験していないだけにたちが悪い(P.10)」が、3年生は昨年それを経験しているので「理解のある方ばかりだった」ということである。そしてそのような3年の例外として、私の行動が描かれている。それによると私は彼の体を倒し、明るいところへ引きずり出し、「顔見せろこのやろう」などと罵声を浴びせたとされている。彼はそれに対して「ひどい扱いだ。後輩の男に対する同情というものがないのか(P.11)」と憤ってみせる。
これを読んで、私のことを「なんてひどい事をする人だろう」と思った方も多かったことだろう。しかし逆に「なんてやさしい人だろう」と思った方もいたはずである。なぜこのような違いが生じるのか?それはひとえに
ピエロの心理に対する理解の有無によるだろう。一体どういうことか。その答えは実は彼の文章の中にある。彼は「肝試しがここまで辛く悲しいものだとは思わなかった」と感想を述べ、「今回、3年生のほとんどは私の部屋を出るときに憐れみの言葉をかけてくださった。それが逆に辛い(P.10)」と言っている。
ほらみろ。ピエロにはやさしい言葉は不要なのだ。鼻で笑われてナンボなのだ。徹底的に冷たくあしらわれてはじめて、ピエロは自らの存在価値を確認することができる。つまり私の一連の行動は、彼のエピソードにより悲劇性を付加し、ドラマチックにさせるためのスパイスとして、必要不可欠なものであるとさえ言えるのである。
いや、彼もそんなことは百も承知のはずだ。そのような扱いに喜びすら感じているはずである。ではなぜ、あえて私をヒールとして記述しているのかと言えば、その一方的な記述に耐えかねた私にこの反論原稿を書かせ、自らの「青春」をよりドラマチックなものにしたいという理由からに他ならない。そう、彼はわかっている筈である。「非生産的かつ絶望的なことをしている(P.13)」瞬間こそ、いちばん自分らしく青春を謳歌できる時であると。というか、そういう方法しかとれないと。一般的な「青春」の定義など、自分には縁がないと。もはや
これ以外に生きる道がないと。
これくらいにしておこう。これ以上言及すると、それは彼に不利益をもたらす。ピエロ役は、あくまで表面上「イヤイヤ」引き受けるものでなければならない。そして、「ほんとはうれしいんだろ〜」的なツッコミに対し、表面上「ふざけんじゃねえよ!」とキレていなければならない。そうでなくては、せっかくのピエロ役の醍醐味も半減である。
もういちど言う。ワタナペに同情は不要である。ついでに言うと、彼はキクコウさんを除く自分以外の人間を見下しているフシがある。それは今回の彼の原稿の端々からも窺い知ることができる。同輩に対し「オレはイテカワじゃない。やつにこんなことができるはずないだろ(P.8)」、先輩に対し「この言い方が気に入らないなと思っていると(P.10)」、後輩に対し「オレはお前なんか知らねーんだよ(P.12)」、そして読者全体に対して自分の投稿について「いかがだったかな(P.13)」などと訊いてみせる。横暴だ。自分が最高だと思っている。
まあ、そういうやつなのだ。彼の言葉を借りれば「放ってくのがよかろう(P.12)」といったところである。いや、そうでなくてはならない。そうしてはじめてワタナペの生きる道も開けていくというものだ。そのような周囲の配慮に本人が気付くことができたとき、彼はピエロとして一層の深みを持つことができるのかもしれない。
ま、どーでもいいけど。
以上
2000年12月26日